看護師経験者が語る!看護師にとって辛いことと夜勤の実態

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皆さんは看護師にどういうイメージを持っていますか?辛いというイメージはありますか?それとも、看護師と言えば白衣の天使!いつでも笑顔でとても優しい、テキパキ動いてとても頼りになる、そんな職業イメージがありますかね?
看護師にあこがれる女の子も多いものです。

私もその一人でした。白衣の天使に憧れて看護師になり、イメージと実際の現場のギャップに驚きを隠せませんでした。とにかく辛い、辛いのオンパレードだった、私の5年間の経験をご紹介します。

完全アウェイの「外部」入社

当時私が働いていた病院は、700床ほどの総合病院でした。付属の看護専門学校があるため、働いている看護師もその学校の卒業生ばかり。もちろん同期入社した看護師の8割以上もその学校の卒業生でした。そのため他の学校を卒業して入社した看護師は、「外部」と呼ばれていました。

私は「外部」の人間でした。入社式は完全に蚊帳の外、といった感覚でした。すでに入社した看護師内にはグループが出来ていて、入っていける状態ではありませんでした。この入社式のダメージはかなり大きく、帰宅後シャワーを浴びながら号泣した記憶があります。

翌日、所属病棟の発表がありました。同じ病棟の同期は8人、そのうち6人は付属の看護学校の卒業生です。そのため病棟へあいさつと見学に行っても、備品の場所や部屋の場所などは知っているものと扱われ、説明すらしてもらえませんでした。

当然外部入社の私ともう一人の看護師は、何もわかりませんでした。それこそトイレの場所すらわからず、私がトイレを発見できたのは4月中旬でした…。もっと早く誰かに聞けばよかったと今になって思いますが、当時は余裕が全くなく、精一杯の毎日でした。

看護技術を教えてもらえない

当時働いていたのは呼吸器病棟、主に肺がんの患者が入院していました。外科と内科の混合病棟だったので、ケモや緩和ケア、肺がんのオペまでさまざまな段階の患者がいました。1年目の看護師にはプリセプターが付き、看護技術の指導やメンタルフォローを行っていました。

ところが私たちは8人もいたにもかかわらず、プリセプターは3人。しかも途中で1人転職してしまったので、実質2人で8人のフォローを行っていました。そのためプリセプターの先輩とはほとんど話をする機会もなく、看護技術の相談もできませんでした。さらに、当時病棟スタッフの半数以上を1年目と2年目の看護師が占めており、先輩看護師自体の数が少ない状況でした。

かなり忙しい病棟だったので先輩看護師を捕まえるのさえ一苦労、さらに質問しても「マニュアル通りにやれば大丈夫!」とほとんど直接指導もしてもらえませんでした。敵便や浣腸、吸引なども患者本人にやった経験はほとんどなかったため恐怖しかなかったのですが…。これはかなり辛かったし、怖かったです。

直接指導してもらえたのは注射や点滴、採血などだけでした。一応看護技術のチェックリストもあったのですが、年度末に口頭チェックのみでした。これは意味がないと新人ながら感じたのを覚えています。

ただ、翌年から看護教育の体勢が見直され、新人に対しプリセプターが必ず1人つくようになりました。さらに看護技術もマンツーマンで、チェックリストに準じて行われるように徹底されたようです。

先輩看護師が怖い…

これはどこの病院にもありがちだと思うのですが、先輩看護師が怖かったです。特に怖い看護師が3人いて、同じ勤務にならないか常に勤務表を確認していました。今でも思い出すのが、1年目の春、最初の夜勤の時のことです。その日は通常よりも1人多い4人での夜勤でした。初めての夜勤、私についたフォローの先輩は、病棟内で1番怖いと言われていた看護師でした。後輩への口調が厳しい、ほとんどナースコールはとらない、と噂の先輩でドキドキしながらの夜勤開始でした。フォローの先輩はほとんど受け持ち患者がいなかったので、ひたすら私の後からついてきて技術や看護を確認していたようです。

そしてナースステーションに戻るたびに、長ったらしく嫌味を言われました。患者の前ではニコニコと声をワントーン高くしてしゃべっているのに、低い声でもちろん私は立ったままでずっと指導を受けていました。ただ、その指導の内容はほとんどが嫌味で、途中から涙をこらえながら聞いていました。

その日の午前5時ごろ、ラウンドに行くと先輩に伝え回り始めました。すると先輩は休憩室へ入ってしまったので、結局私一人でラウンドへ行きました。すべての部屋を見回りナースステーションに戻る時、ふとうめき声が耳に付きました。急いで部屋を確認すると、個室に入院していた患者が酸素マスクを外し暴れている様子です。点滴のルートやモニターもぐちゃぐちゃ、SPO2も70台まで下がってアラームが鳴りっぱなし。新人看護師だった私はどうしていいかわからず、すぐにナースコールを押しました。すぐに他の看護師が駆けつけてくれて大事にならずに済んだのですが、ここでフォローの先輩が突然私に声を荒げます。

なぜ自分をすぐに呼ばなかったのか!と。その時先輩は休憩室にいたのに!ラウンドに行くと伝えたのに!患者のそばを離れられるわけないのに…。恐怖心は怒りに変わり、あきれてなにも言えませんでした。とりあえずすいませんと何度も謝ったことは覚えています。当時私の病棟は3交替勤務で、これは深夜帯での出来事です。翌日は同じ先輩と準夜でした。行く前から胃が痛くて痛くて、胃薬を飲んでから出勤したのを昨日のことのように思い出します。

さらにもう一人の先輩、A看護師は、仕事が忙しい時や自分の機嫌が悪い時に、他のスタッフに対し攻撃的な発言を繰り返す人でした。もちろん私も例外ではなく、何度も一方的に暴言を吐かれたことがあります。私の働いていた病棟は受け持ち看護性で、日によって担当患者が異なります。当然受け持つ患者によって、その日の業務内容に差が出てしまうのです。例えば点滴が多くなってしまったり、オペ患を2人見ることになったり、寝たきりの患者ばかりでケアが多かったり。もちろん今日の患者は重いな…と思っても何も言わず業務を行いました。

ところがA看護師は違うのです。まずは当日のリーダーに文句を言います。この部屋割りはきつすぎる!〇〇さんの患者は軽いから数人受け持たせてくれと。リーダーが困惑していると、次は前日のリーダーにターゲットが移ります。

なぜこんな部屋割りにしたのか、部屋割りが下手過ぎる…等、忙しい朝のナースステーションでいざこざが始まります。結局いつも当日のリーダーと、一緒に働くスタッフが折れるしかありませんでした。当然他のスタッフの業務負担は大きくなりますが、A看護師の業務は軽くなりますよね。そのためなのか、いつも必ず先に昼休憩に入っていましたし、他のスタッフが残業する中そそくさと帰宅していました。

A看護師はスタッフに対して威圧的な対応を取るだけでなく、患者に対しても威圧的な対応を取っていました。そのため何度も患者の家族とトラブルになり、時には病室に入室禁止となっている場合もありました。私も直接現場を見たことがあるのですが、かなり強気な言い方、もちろん敬語など使わずまるでケンかのようでした。

その日は土曜日、私はフリー業務で患者の清潔ケアを行っていました。その日A看護師が受け持っていたBさんは気管切開の高齢男性でした。コミュニケーションは筆談とボード、車いすで自走する朗らかな方でした。ただ少し頑固なところがあり、自分の意志がとてもはっきりしています。Bさんは抗生剤の点滴を1日2回行っており、10時に行う予定でした。ところがちょうど土曜日だったため、友達が面会に来ていたようです。そのためBさんは抗生剤の点滴を少し遅らせてほしいと、A看護師にお願いしました。A看護師も了承し、友達が帰宅した後に点滴を行うことになりました。

1時間後、友達が帰宅したためA看護師が再度訪室。点滴を行おうとしましたが、Bさんはトイレに行きたいから少し待ってほしいと言います。すると突然A看護師が声を荒げ、「私は忙しい!あなたの都合にばかり合わせていられない!あなたの担当をしたくない!」と大声で言いました。ちょうどケアで廊下を回っていた私の耳にも入ったので、相当大きな声を出していたのだろうと思います。これを聞いたBさんも腹を立て、オーバーテーブルをひっくり返してしまいました。ガシャーンという大きな音に驚いたスタッフが大勢駆けつけます。そこで私たちが見たのは肩で息をするBさんと号泣するA看護師でした。もう意味が分からず、ただぼうっと現場を見ていました。他のスタッフも同じような様子で一瞬止まっていました。患者に対してここまで感情をあらわにしてしまう、これは看護師としてどうなのかと、当時2年目の下っ端ながら感じていました。この一件が問題となったのか、しばらくしてA看護師は別の病棟へ異動となりました。

とにかくA看護師と一緒に仕事をするのは辛かったです。いつ何が起爆剤になるかわからない、常に怒鳴られる恐怖と戦いながら仕事をしている感じでした。他のスタッフも同じで、誰もA看護師には口出しできる人がいませんでした。勤務表を作成する師長に対しても文句を言っていたので、本当に誰も止められる人がいなかったのだろうと思います。そのためA看護師がナースステーションにいると、全体の雰囲気がどんよりと暗くなっていたのを今でも思い出します。

業務負担が大きい

看護師の仕事自体は好きだったのですが、とにかくやることが多すぎて毎日てんてこ舞いでした。勤務中はほとんど椅子に座ることはできず、常に走り回っている状態でした。

業務開始は8時30分からでしたが、その前に受け持ち患者の情報収集と点滴の準備を終わらせておくようにと言われていました。そのため勤務開始の1時間以上前に出勤せねばならず、かなり体に応えました。

点滴や注射の量も多く、調剤するのも大変でした。ミスをしないように集中して行っていたので、かなりの疲労度でした。一度に使用するバイアル数も多かったので、シリンジを操作しすぎて手が疲れてしまうこともしばしばでした。次に働く時は、薬局で調剤してくれる病院にしよう…と他のスタッフとよく話していたことを思い出します。

患者のほとんどは肺がん患者やレスピを使用している患者、誤嚥性肺炎の高齢患者も多くいました。そのため全体的に重症度が高く、頻回に様々なケアが必要でした。体位変換やおむつ交換はもちろん、全身清拭や洗髪、食事介助まで本当にいろいろなケアを毎日行っていました。私の働いていた病棟には介護ヘルパーはおらず、看護助手が1人のみでした。看護助手に依頼できる業務は、メッセンジャーやベッドメイキング程度で、看護や介護業務は看護師がやるしかありませんでした。そのため常に疲労困憊。腰痛やひざ痛を起こす看護師も多く、ロキソニンやコルセットは仕事に欠かせないアイテムでした。

肺がん患者が多いため、疼痛緩和のために麻薬を使っている患者がほとんどでした。オキシコンチンなどの定刻投与をはじめ、塩酸モルヒネの静注や皮下注、デュロテップMTパッチなど様々な種類の麻薬があり、投与する際はとても緊張します。

もちろんダブルチェックが必要だったので、確認してもらう他のスタッフを探すのも一苦労で大変でした。業務内容が多いので、当然定時には終わりません。定時は17時15分だったのですが、勤務していた5年間で定時帰り出来たのはわずか2回のみ。17時台に帰宅できることもほとんどありませんでした。1日の業務がすべて終わってやっと椅子に座れるのが18時近く、そこからカルテに記入をして、翌日の準備を行っているとあっという間に20時過ぎでした。

消灯まで病棟にいることも珍しくなく、いつまでいるのと患者に心配されていたものです。また、経験年数が多くなるたびに業務以外の仕事も増えてきました。委員会活動や病棟の係など、時には自宅に仕事を持ち帰ってやることもありました。

悲しいことに委員会活動などは残業と認められなかったので、サービス残業と言う形で行っていました。病院のためにやっていた活動なのに、今でも腑に落ちません。さらに病棟で毎月開かれていた会議。この会議には休日でもできるだけ出席するよう指導されていました。そのため夜勤明けや休日の時でも、17時からの会議に間に合うように病院へ行かねばなりませんでした。

もちろん勤務扱いにはならないので給料は発生しません。この会議が連休の中日にあると予定も立てられず、非常に嫌でした。会議自体も大した内容ではなく、書面で終わるようなものばかり。なぜ形式にとらわれていつまでも続けているのか謎でした。ただし、私が仕事を退職する頃には参加する看護師もかなり少なくなっていたので、今でも現存しているかはわかりませんが…。

看取りが辛い

肺がんは死亡率が高いがんです。そのため勤めていた病棟の死亡患者数は、すべての病棟内でダントツ1位でした。そのため見取りも頻繁で、精神的にもかなり辛かったです。何度経験しても死に立ち会うのは辛いものです。患者にすがって泣く家族への声掛けや対応なども難しく、いつも当たり障りのないことしか言えませんでした。もっと一人一人に寄り添った声掛けや対応が出来たらよかったのですが…今でも後悔しています。

また、個人的に辛かったのが見取りの後の家族への声掛けです。エンゼルケアが終わった後、家族に葬儀業者へ連絡するように伝える必要がありました。私は子の声掛けが非常に苦手で、いつも躊躇しながら行っていたのを思い出します。悲しみにくれる家族をすぐに現実に戻してしまうようで辛かったのです。業務なので仕方がなかったのですが…。

親しかった患者の死も辛かったです。抗がん剤治療のたびに定期的に入院する患者が多かったので、治療を続けるうちに次第に打ち解け、自然に会話ができるようになります。しかし、次第に体調が悪くなっていき体に自由が利かなくなる、食事が摂れなくなる、動けなくなる…そんな患者の状態を目の当たりにするのは辛いことでした。

特に新人の頃は本当に辛く、親しかった患者が亡くなるたびにすごく落ち込んでいました。ただ、もちろん見取りも大切な仕事です。そのため患者や家族の前で涙を見せることは許されませんでした。先輩看護師にもそのように強く指導されていました。

夜勤が辛すぎる

辛いことはたくさんありましたが、やはりダントツで辛かったのは夜勤です。肉体的にも精神的にも辛いものでした。入職当時は3交替勤務でした。日勤→深夜→準夜のよくある勤務体制です。日勤が定時で終われば深夜までに数時間は仮眠することができますが、仕事が忙しかったので常に帰宅は20時過ぎでした。

そのまま仮眠する時間も無く23時過ぎに再出勤、翌日の昼近くまで勤務していました。睡眠不足で頭は回らないし疲れてフラフラ…。当時はまだ紙カルテだったので記録も思うように進まず大変でした。さらに準夜後の日勤も同様で、深夜3時過ぎに帰宅して7時には出勤、今考えてもよくやっていたなと思います。

3交替の時は夜勤回数も多かったので、常に疲労困憊、休みの日はひたすら寝て体力を回復させていました。途中で2交替勤務に変更され、少し体力的には楽になりました。ただ、拘束時間が約20時間と非常に長くなってしまったので、相変わらず辛かったです。

夜勤中は日勤に比べると業務自体は少ないです。そのため落ち着いている時はいいのですが、忙しい時は20時間中休憩30分などという時もありました。忙しい時は食事をゆっくり食べる時間も無かったので、かき込むように5分で食べて業務に戻っていました。

中でも特に辛かった夜がありました。その日は先輩と後輩、私の3人で夜勤をしていました。夜勤開始時からオペの患者が帰ってきたり、緊急入院があったりとバタバタしていました。そのため3人とも5分程度しか休憩が取れないまま、消灯時間を迎えました。

消灯後すぐに患者が一人亡くなりました。エンゼルケアやお見送りなどでバタバタしているうちに、もう一人の患者も急変。対応に追われていました。結局その患者もなくなり再度エンゼルケアとお見送り、この時点ですでに午前3時を過ぎていました。

ほっとする時間もないまま、少しカルテに記入しようとやっと腰を下ろします。ところが次は再度緊急入院があったため対応でバタバタ…。結局ほとんど座る時間もないまま朝を迎えてしまいました。

朝は検温や朝食の介助、洗面介助などやることがたくさんあります。さらにこの日は採血の患者も多かったので、必死で回っていました。頭も回らないしフラフラ、疲れて過ぎて足取りも重くスムーズに動きません。

しかしミスをするわけにはいかないので、とにかく間違えないように確認を頻繁に行いながら業務をしていました。やっと日勤帯の看護師と交代になってももちろんすぐには帰れません。

ほとんど座れず記録もできていなかったので、午前9時過ぎからようやくデスクワークです。疲労困憊の状態でやるデスクワークは全く進まずさらに委員会活動もやらねばならなかったので結局帰宅できたのは昼でした。

まとめ

今回は私の辛かった経験をご紹介させていただきました。この時の私はまだ20代前半で若く、体力もありました。また独身だったので、家庭のことを考える必要もありませんでした。だからこそできた業務だろうなと思います。実際に離職率は高く、ほとんどの看護師が5年目までに転職していました。業務が辛くて体を壊してしまった看護師や、メンタルが不安定になってしまった看護師もいました。私自身も5年目でこの職場を退職、現在は子育てに専念しています。今後復職する時は、業務のバランスや内容をしっかりと把握し、家庭との両立が可能な職場を選んでいこうと思います。

辛かったあの時、もっと早く辛い!と声を上げていればもっと働きやすい職場になったかもしれません。今になって後悔しています。辛い状況を我慢して働いている看護師は多いと思いますが、我慢しすぎて体調を崩してしまっては元も子もありません。アクションを起こす勇気、逃げ出す勇気も必要かもしれませんね。看護師の求人数は依然として多く、どこの現場もいまだ人出不足の状況です。もちろん転職も他の職種に比べれば簡単でしょう。だからこそ、しっかりと自分の理想の職場を見つけることが大切なのです。勤務時間や業務内容、実際のスタッフの声などできるだけ多くの情報を集め、最適な職場を探してみてくださいね。

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